極刑か否か

 
 死刑には賛成だった。非情な殺され方をした被害者の無念を思えば、被告は命を持って罪を償うべきだ、法律公認の仇討ち制度だ、自分だけ人生やり直そうなんてずるい、そんな風に考えていた。
 
 しかしそれも、付属池田小事件の被告の報道を、目の当たりにしてから考えが怪しくなってきた。元被告は死刑を望み、法廷でもふてぶてしい態度を貫いて最後まで反省の弁は述べることはなかった。そうすると、彼は自分の思惑通りに人の命をあやめ、望み通り極刑に処されたのである。
 
 願わくは、幼い我が子を奪われてしまった、遺族のかたがたの悲しみが少しでも癒えることを。しかし、確信を持って事件を起こす人間を止められなくなってしまった。予防しようにも、難しい。
 
 死刑存廃議論において、「死刑があると、えん罪だったときに取り返しが付かない」といった主張がある。現代の司法制度において、死刑になるには被告がその刑を受け入れなければ、上級裁判所まで持ち越される。警察から検察へ、そして地裁、高裁、最高裁と段階がある。
 
 その間に事件の態様が精査されて、シロかクロかが決まる。「疑わしきは罰せず」という考えである、推定無罪の原則があり、且つ法曹界や一般市民が声を上げて、物事を言えるこの国において、えん罪で死刑になる可能性は低いと思量される。
 
 「死刑は犯罪の抑止力にならない」という主張がある。確かにアメリカなどの例を見ても、死刑のある国や地域で、犯罪発生率が劇的な数値となって現れることはない。その一方で、死刑を適用する基準の厳しい国であるシンガポールやアラブ諸国において、マフィアのような犯罪組織が存在しないことは、死刑に一定の抑止力があると考えられている。ただしこれは、国や地域の人口などにもよるところがあり、死刑の有無が犯罪数を増減させる要因にはなっていない。
 
 死刑の適用基準は難しい。何人殺したら死刑であるという、命を天秤にかける基準を設けるのもおかしいうえ、その態様が残虐であるという基準を定めるのも困難な作業だ。
 
 では、死刑制度のある日本ではどうあるべきだろうか。日本では暴力団の存在もあり、また、死刑があるにも拘わらず、海外からの犯罪者が多く存在している。そして極刑を志願する犯罪者たち。
 
死刑に賛成する人は、被害者遺族の側に立ち、声を大にしてそれを主張すべきだ。
死刑に賛成する人は、加害者に向かってそれを主張すべきだ。
死刑に反対する人は、被害者遺族に向かってそれを主張してはいけない。
死刑に反対する人は、加害者に向かってそれを主張すべきだ。償いのために生きて、生きて、生き恥をさらしなさい、罪の重さに苦しみなさい、と。
 
 来年には裁判員制度が始まる。一般市民の責任は、非常に、非常に、重くなる。
 
 
☆ 我々の憎悪があまりに激しくなると、憎んでいる相手よりも下劣になる。(ラ・ロシュコー)
 
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★ 特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観(毎日新聞・08/7/4)
 
 

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