言葉のリサイクル

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3.11以降の死生観

 姪が2人いる。手前味噌だがとても可愛くて、私に会うと「にいに〜」と呼んでくれる。上の子は私のことを気に入っているらしく、顔を赤らめて照れてしまうほどだ。まだ4歳であるのに、異性を意識するというのはどの瞬間に訪れるのだろう。
 
 3.11の震災後に日本人の死生観を見た。あの震災に誰もがショックを受けたはずだ。これまで見たことも想像したこともないような映像は生涯忘れることはない。誰もが無念の魂に同情し、悲しいお別れをした。
 
 それと同時に、震災以降は善悪を本気で考える人とそうではない人を明確に分けた。原発事故で自殺者が出たにもかかわらず、原発再稼働を国民に向けて発信した某国首相はその一例だ。東電福島第一原発事故が収束していないというのに、大飯原発の再稼働を訴えた。
 
 原発事故で日本は自然再生エネルギー(グリーンエネルギー=green evergy)に方向転換の舵を切るものと思っていた。世界から「震災から立ち直った日本」と賞賛されるのではないかと思っていた。しかし震災から1年以上が経過したにもかかわらず、政府主導でそうなる気配は全くなく、むしろ民間の太陽光発電や水力発電を期待するしかない。
 
 原発利権に群がる人や、あれだけの震災で傷ついた人を助けようと本気で行動している人とそうでない人も分けた。人というのはいざというときの言動でその本音がはっきりする。
 
 生に固執している人というのは、手段を選ばずなりふり構わずに嘘を装う。これが実にみっともない。最後に生きる手段として見栄や虚構ほどみすぼらしいこともない。
 
 人生後半戦に入ったところで、例えば姪っ子に血液が必要になったり、角膜が必要になったり、何らかの内蔵が必要になったら、喜んで提供しようと考えるようになった。思えばこれまでにまともに社会貢献したことがない。体の一部を削ることで若い未来が育つのであれば、命さえ差し出してもいいとすら思う。
 
 生きることにしがみついていると、人生はとても苦しい。しかし覚悟を決めてしまえば、その重荷は減ることになる。いずれ誰しもお迎えが来ることは明白であり、それから逃れることはできない。ならば、生きたいがために着飾るよりか、その着飾った服を差し出すことをためらうべきではない。
 
 次の世代に引き継がなくてはならない。あなたは、いつまで生きるつもりでいるのか。これまでは生きてきたかもしれないが、これからは生かされる。同じ人生を歩むのであれば、その時間を若い世代に託すべき。他人のために生きることのできない人生は本当の人生ではなく、単なるわがままな人生でしかないはず。
 
 生に生きるか、生に死ぬか。人生への執着を捨てたとき、人間の生命力は永遠のものとなる。
 
 
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