言葉のリサイクル

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及ばない話

 中学1年生のときにポケットコンピューターを買ってもらった。電卓のような表示しかできない代物であったが、漫画で得た知識をフル活用して自分でプログラミングを楽しんだ。それから今度はちゃんとしたパソコンを手に入れて簡単なゲームも作って腕を磨いた。それから何台か買い替えてもともとやりたかった作曲を始めた。音楽の知識はなかったが、好きこそものの上手なれで楽譜を読むことができるようになった。
 
 このころは通信といえばパソコン通信というものがあったが、高額で周りでやっている人もいなかったため手を出さずにいた。FAXが使えるパソコンであったので、一部の友人とFAX通信を楽しんだ。この頃は電電公社が民営化されてNTTとなり、さまざまな固定電話が発売されていた時期であり、ファックスでのやりとりがたまらなく面白かった。携帯電話はまだ普及しておらず、ポケットベルが全盛期だった時代である。
 
 やがてWindows95が発売されるころになると携帯電話が普及し始める。同時に簡易型携帯電話であるPHSも発売開始となる。インターネットが普及し始めたのはこのころである。
 
 神奈川県で凶悪事件が発生した。短期間で複数人を犠牲にする事件など記憶にない。こうした理由のよくわからない犯罪は犯罪心理学者にその犯意分析を任せるしかないし、司法が適切に裁くことになるだろう。
 
 この事件の中でインターネットが事件をほう助したような意見を見ることができるが、おおよそ間違いである。手軽に発信できる可能性が知らない者どうしを容易に結びつけることができるようになったのは事実である。だからといってネットを規制しても意味はない。
 
 冒頭、ネットにたどり着くまでの体験を長々と書きつづったが、こうした経験をもとにして犯罪に手を染めようと思ったことはない。ポケベル時代に東京・埼玉連続児童殺害事件が起きたときにホラームービーが規制となったが、規制対象になったムービーを見たことがあっても同じことをしようとは思わない。90年代後半にドラマの影響で事件が起こりバタフライナイフが規制されたが、身近に包丁があっても人を傷つけようとは考えない。車で歩行者天国の人混みに突っ込もうと考えたこともない。
 
 規制をする以前に、その手前で手を差し伸べることができなかったのだろうか。今回の神奈川の事件では被害者の一部が自殺念慮した可能性がわかっている。そして加害者のも「生きていることに意味がない」と漏らしていたこともわかっている。犯罪をしたものを糾弾するのは容易であるが、そうなる前の駆け込み寺のような存在がなかったのだろうか。
 
 認められない社会、達成感のない感覚、読めない状況、閉塞感のある世の中で生きている意味を考えることもあるかもしれない。そんなときに誰かの声がけで傷ついた人を振り向かせることもできるはずである。そしてそれもまた、インターネットの可能性である。
 
  
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