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大学が友達作りを手伝う SNSや交流会まで・・・

 「友達100人できるかな」と歌うのは新小学1年生だが、新大学生に対して大学側が厚遇しているとは知らなかった。ある大学では入学前の高校生らの不安に応えようと、友達作りの手助けに乗り出しているという。会員のみがログインできるネット上のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を開設したり交流会を開いているという。
 
 生涯の友人は大学でできるかもしれないが、本来そういう友人は学生自ら作っていくもの。友達を作りたければ、自分から声をかけることが手段として一番手っ取り早い。
 
 SNSなどのネットサービスは友人関係を構築しやすい面もあるだろう。しかし、友人関係を作るのが苦手な人というのはネット上にも存在する。つまるところ、学生の主体性に期待するのが筋である。そしてそれが大学生であり、大学という場所なのだ。
 
 もっとも友達を作るだけが学生生活ではない。1つのことに腐心して、勉強に、アルバイトに励むのも本来あるべき姿。そんな姿を見て「友達になりたい」と思う人もきっと出てくるはず。
 
 学祭に参加したときに、イベントで出たゴミの分別を屋外でしていた。その時に激しい雨が降ってきてしまい、ずぶ濡れになりながらゴミを仕分けした。そんな姿を見ていたのか、「お疲れ様でした」と声をかけてくれた知らない女の子がいた。その子は、ゴミ処理が終わったあとに校舎ですれ違ったときにも「お疲れ様でした」と声をかけてくれた。私はおじさん学生。その子はどう見ても現役学生だったので友達にはならなかったが、もしかしたらあの子、友達になりたかったのかな。
 
 
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★ 友達作り、大学がお手伝い 入学前からSNSや交流会(朝日新聞・10/9/12)
 
 

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懐かしい再放送「スチュワーデス物語」

 
 83年に放送された「スチュワーデス物語」の再放送が懐かしい。主人公の松本千秋(堀ちえみ)がスチュワーデスを目指して努力奮闘していく。村沢教官(風間杜夫)との恋愛も絡めて、他の訓練生と共に成長していく姿を描いている。他の出演者は片平なぎさ、山吹千里、白石まるみ、春やすこ、高樹澪、長門裕之など多数。 
 
 当初、村沢は客室乗務員として勤務していたが、訓練課長の柿野(石立鉄男)に教官として辞令が下りたことを告げられ戸惑う。初めての訓練生に対しても横柄な態度で接し、全くやる気を見せなかったが、その態度を改めさせたのは体当たりでぶつかっていった松本千秋だった。
 
 本編では日本航空が全面的に撮影に協力し、実際の航空機客室モックアップを使った訓練の様子も描かれている。フライトシミュレーターや緊急脱出の訓練も本物を使って撮影が行われた。英語の教官なども実際の講師本人が登場して演技をしている。屋外ロケは東京国際空港(羽田空港)周辺で行われており、のちに新しくなった現在の空港周辺と風景が異なることもあり、懐かしい画が楽しめる。
 
 恋愛ものと学園ものをミックスしたものとしては異質な存在だ。前述の施設や実在する訓練センターを使ったこともあり、そうした建物がベタな恋愛話のリアリティを出す重要な存在となっている。本編では、松本が訓練中におぼれて意識を失い、村沢が人工呼吸をする場面がある。当時のスポーツ新聞では「堀ちえみのファーストキス」と題された。
 
 今年の日本航空は経営再建を強いられており、また、85年に発生した日本航空123便墜落事故から四半世紀となる。主演の堀ちえみは2度目の離婚が明らかになっており、何かと縁の深い再放送である。
 
 大きな航空機が飛ぶ大きな空は今も昔も変わらない。時代は変わっても自然の織りなす空気の色というのはそう簡単に変わらない。ベタな恋愛ものと書いたが、ドラマだけではなく、実際の恋愛もベタなものが多い。そこにあるのはいつの時代も見上げれば大きな空、そして人間の織りなす恋愛の色さまざまであり、ドジでのろまでじれったい話が流れているのである。
  

 

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懐かしい再放送「ウルトラマン80」

 初代ウルトラマンやセブンにタロウを観て育ったが、それらは再放送であった。それゆえに、本放送で観ることのできた「ウルトラマン80(エイティ)」が懐かしい。80というのは1980年に放送されたことに由来する。主演は長谷川初範。UGM隊長役に中山仁、隊員に石田えり。
 
 人間の邪悪な心が怪獣を生むという考えから、ウルトラマン80(以下80)が教師・矢的猛(たまとたけし)に姿を変えて地球で生活し、世直しを図る。そして矢的は、地球防衛軍・UGM(Utility Government Members)の隊員でもある。
 
 「東京サイレント作戦」という話では、騒音を食べてエネルギーに変えるその名も「ノイズラー」という怪獣が出現する。矢的は騒音を出してはいけないことに気づき、隊長に東京中の騒音をストップさせるよう依頼する。各省庁との交渉は難航するも、隊長の粘り強い交渉により、東京及び近郊の機能をストップさせた。
 
 こんなに簡単に首都機能を停止させられるわけもないが、30分番組、それも正味21分で完結させなくてはならないので仕方がない。この話に関して言えば、パニック映画のようであり、「東京サイレント作戦」の内容を30分番組のテーマで終わらせるのはもったいない気がする。
 
 騒音がなくなってしまったノイズラーはおとなしくなるが、ある音をきっかけに目が覚めてしまう。その後はそれまでの怪獣にはみられない”荒れ狂う姿”が楽しめる。矢的は80に変身をしてノイズラーと闘うが、比較的珍しい形で怪獣の”最後”を見ることとなる。
 
 80はそれまでのウルトラマンに比べてアクション性が高い。矢的が80に変身するときに正拳突きをしてからブライトスティックを上げるが、そのせいか80のキックやパンチは空手をなぞったようなものになっている。側転やバック転などの技もプロレスに近い。左右の腕を上と右に伸ばしてから繰り出す「サクシウム光線」は神秘的なアクションだ。
 
 劇中の音楽はそれまでと同じで管弦楽器を使った曲が楽しめる。子どものころは意識をしていなかったが、この壮大な音楽が大きなウルトラマンの迫力を支えていたことだろう。80のオープニングテーマ曲も懐かしかった。
 
 冒頭に書いた、人間の邪悪な心が怪獣を生む、という設定は共感できる部分がある。怪獣はもちろん存在しないが、その代わりに自然災害や異常気象が地球を襲う。そしてそれに立ち向かうのはウルトラマン80ではなく、我々ひとりひとりの人間なのである。
 
★ 円谷プロダクション公式WEBサイト
★ ウルトラ情報局(ファミリー劇場)
★ 長谷川初範(所属事務所によるプロフィール)
★ 痛みを知らない 少年たち(本ブログ・06/2/16)
 
 

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30歳になった「パックマン」 それまでにはないゲームだった

 1979年、東京・中野のブロードウェイ。ここのゲームセンターで初めて「パックマン」を見た。それは衝撃的なゲームであった。それまでのアーケードゲームと言えば、スペースインベーダーがまだブームであったころである。このゲームの変形版も多く見られる時代。そんな中「パックマン」のデビューである。シューティングゲームとはちがい、十字レバーのみを使う画期的なゲームの登場に、「え?ボタンは使わないの?」と驚いたものである。
 
 それのみならず、目を釘付けにしたのは画面のカラフルさである。インベーダーが単調な色であったのに、パックマンはイエロー、モンスターは赤、ピンク、水色、オレンジ、そして画面を青色のルートが彩った。
 
 ルールは単純で、パックマンを操作して、小さいえさのドットをすべて間食すれば1面クリアである。しかし、4匹のモンスターに追いつかれないように、逃げながら完食しなくてはならない。ただ、全部で4つ用意されている「パワーエサ」を食べると、数秒間だけモンスターを「食べる」ことができる。食べられたモンスターは目玉が画面中央の「モンスターハウス」に戻り、モンスターの姿に復活してまたパックマンを追いかけ始める。
 
 画面左右にはワープゾーンがあり、右から左へ、左から右へ抜けることができる。ひたすら追いかけられるパックマンだが、モンスターハウスの上2つの通路だけは、なぜかモンスターが追いかけてこない唯一の場所である。
 
 このゲームではどこのゲームセンターに行っても「ヒーロー」がいた。パックマンは特定のパターンでやり過ごすことができる。いつも同じ動きをしていれば、どの面もクリアできる。私も独自のパターンを作って周りの目を驚かせたが、長続きしないパターンを作ってしまい、失笑を買った。
 
 ブレイクタイムのパックマンとモンスターの追いかけっこも面白い。面をクリアするごとにチェリーやバナナが表示されるが、その先は何故かギャラクシアンの親玉キャラやカギが出てくるのも興味を引いた。
 
 アーケードゲームと駄菓子がつきものだったので、友人らと”ゲーセン”で遊ぶのは当たり前のことになっていた。今では当時のアーケードゲームよりも高度なものが家で楽しめる時代になった。そのかわり、街の中にあった駄菓子屋や名物おじさん・おばさんのいたゲーセンはなくなってしまった。
 
 パックマンは画面上にある物を完食するが、これは後の様々なゲームが踏襲することとなった。枚挙にいとまがないが、「アミダ」、「クリーニングクリーニング」、「ラリーX」、「マッピー」など、画面に置かれた物を一掃することで「一面クリア」になったゲームの原型になったのだ。
 
 

 

 
 
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★ 「パックマン」が生誕30周年(CNN.co.jp・10/5/22)
 
 

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その他 個人的なウェブログ

青い看護服の”学生さん” Kさんに逢いたい。

 ブログを書き続けて5年半ほどになる。これほど続いたのはもともと書くことが好きであったことが大きいが、それに加えて気になる情報がうまい具合にリンクすることが多いのだ。
 
 例えば、何となく「志村けん」について考えていると、毎日新聞が志村氏にインタビューしている記事に出会ったり、「夏木マリ」のことを考えていると、今日のオリコンの記事に夏木マリさんが出ているのだ。では、なぜ夏木マリさんのことを考えているのかというと、夏木マリさんにそっくりで美人の看護婦さん見習いの女性のことを思い出していたからだ。
 
 数年前に入院したとき、病棟には青い服を着た看護師見習いの男女がいた。白衣の看護師ではないので医療行為はできないが、雑務は彼らが担当する。この彼らの働きで看護師さんは助かっている部分もあるだろう。青い見習いさん達は看護学校に行っていることから「学生さん」と呼ばれていた。その中で特に印象に残った”夏木マリ似”の美人学生がKさんだった。
 
 当時、タバコを吸っていた私は喫煙所を社交場としていた。多くの患者さんがいたが、そこは学生さんも看護師さんも滅多に立ち入ることはない場所だった。しかし夜勤明けのKさんだけは違った。小柄で華奢(きゃしゃ)な彼女は私の目の前にちょこんと座り、こちらをみてニコニコしている。必ず私の前で座るのだ。
 
 「夜勤明けですか?」
 「はい、そうです」
 「疲れているでしょう?」
 「いえ、大丈夫ですよ」
 
 この程度の他愛のない会話だが、Kさんの勤務日が実に待ち遠しかった。もう一つおまけにいうと、Kさんのお姉さんも同じ場所で働いていた。でも、私は断然Kさんが気に入ってしまった。交換したかったが、メールなどの個人情報のやりとりはできない。私の退院が近づいていることを知っていたのだろう。最後の日、Kさんは立ち去るときに”バイバイ”と手を振ってくれた。
 
 ところで、オリコンの記事に夏木マリさんが出ていたのは「婚活なんてナシだと思う。なんで活動しなくちゃならないの?」と怒っているという内容だ。
 
 最近は男女も忙しくなり、なかなか出会うきっかけがないかもしれない。いや、正確に言うと、出会っているのだが、ものにしようとする行動力が欠落しているのだ。これも、今日友人とツイッターでやりとりしていた内容とリンクする。メールやmixiのようなSNSで交流は増えているかのように感じるが、生身の人間への”第一歩”が足りないのだ。当たって砕けて恋愛はなんぼである。
 
 話を戻すと、ブログを書くときの情報のリンクと同様に、昔からこういうちょっとしたドキドキ感に恵まれている方だと思う。だから私は、もし街でKさんに会うことがあったらアタックします。彼女の服の色なんてどうでもいい。だからもう一度、Kさんに逢いたい。そうしたら、当たって砕けます。
  
 
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★ 夏木マリが昨今の”婚活”ブームをばっさり!「なんで活動しなきゃいけないの?」(オリコンランキング・10/5/10)
 
 

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懐かしい再放送「ザ・トップテン」キラキラしていた80年代

 この手の番組の再放送を見ることができるとは夢にも思わなかった。かつてのランキング形式の音楽番組で一世を風靡した「ザ・トップテン」が懐かしい。80年代を彩ったアイドルたちが懐かしく、四半世紀の時間経過を忘れさせてくれる。
 
 松田聖子、河合奈保子、中森明菜、堀ちえみ、小泉今日子、菊池桃子などの女性陣、チェッカーズ、安全地帯、吉川晃司、アルフィ、CCBなどの男性陣。歌手が歌う前に、司会者であった堺正章と榊原郁恵と一緒にする会話も楽しい。
 
 番組の魅力となったことの1つに「中継」がある。主に番組放送していた東京・渋谷公会堂に来られない歌手は、中継で渋谷とを結び歌を歌った。特に中継にこだわっていたのは「ザ・ベストテン」ともいえる。時間がない歌手が新幹線で移動していたときに、駅の停車時間というわずかな部分を拘束して中継で歌わせた。歌手によっては、新幹線が発車するぎりぎりまでホームで歌い、発車のベルが鳴ったときは新幹線に乗り込んで歌を歌い続けるという、今では考えられない”無茶な”中継が楽しかった。
 

 こうした中継について、当時の「ザ・ベストテン」の担当は、「ランキングを正確にするために中継にもこだわった」という。是が非でも歌ってもらうことで、ランキングというものに真実味を与えたわけだ。しかし番組開始当時は系列局の協力を得るのに苦労したという。「報道ならともかく、たかだか3分の歌のために中継車を出すなんて」というわけだ。しかし中継も後に番組の重要な位置を占めることになった。(※)

 
 ザ・トップテン番組中のハプニングとして、「日本航空123便墜落事故」(85年8月)の速報がある。番組冒頭に小林完吾アナウンサーが、同機が管制塔レーダーから消えたことを伝えた。番組は進行したが、何度か中断してこの事故の速報を伝えた。
 
 80年代後半に、トップテンやベストテン、「夜のヒットスタジオ」が相次いで番組の歴史に幕を閉じた。その原因として、視聴者の音楽嗜好の変化が挙げられた。そして大スターやヒット曲の不在、出演を拒否した歌手が続いたことも大きな痛手となった。
 
 この時期の音楽業界といえばレコードからCDへ移行した時期である。1曲聴くのに針を落として歌詞カードを読みながら音楽を楽しむという時間があったが、CD出現で忙しくても多少手荒に扱えるCDはテレビの前で好きな歌手が出てくることを待つ必要をなくした。加えて洋楽ブームが起きていたことも、当時の音楽番組離れを加速させていった。
 
 番組を支えたのは出演歌手のみならず、司会者も同じである。そして裏方さんの苦労も忘れてはならない。出演者のスケジュール管理、中継の手配、大きなセットの制作など番組を楽しく見られるために忙しく動き回っていた人たちに感謝したい。
 
 毎週が楽しみだった音楽番組。ランキング紹介でどの歌手が出てくるのかはとてもワクワクさせられた。そんな興奮を四半世紀ぶりに味わえるのも、再放送を有料で見ることのできる時代になったからであろう。”来週”はどんな歌手が出てくるのか楽しみである。それにしても童心に戻る。思えば放送当時、純粋にテレビを楽しめばよく、大人目線で見る必要がなかったことが実に楽しかったのだ。
 
 
(※)=参考・読売新聞東京版夕刊・92年11月24日
 
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★ ザ・トップテン(日テレプラス)
 
 

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昔話を知っている子どもたち

 小学生の時に昔話についてクラスで研究していたことがある。その中で興味を持ったのは、話の最後に付く言葉だった。「しゃんしゃん」、「とっぴんばらりのぶう」、「えつこまんま」など、それ自体は意味のない言葉のようで、「おしまい」に代わる言葉だった。当時はその言葉を探すにしても、昔話を片っ端からあさるほか手段はなかった。今ならネットで簡単に検索できることだろう。
 驚いた。桃太郎の鬼退治にお供するのはイヌ、サル、おばあさん —————— 筑波大学大学院の徳田克己教授(子供支援学)らのグループが行った調査で、有名な童話や昔話を子供たちが正確に理解していないことが分かった。桃太郎が腰につけたものについては、平成2年の調査では3歳児の76%、5〜6歳児の91%が「きびだんご」と答えたが、今回の調査ではそれぞれ22%、51%と低下。中にはパン、ケーキ、シチューという誤答もあったという。
 徳田教授は「親も物語をよく知らなくなってきている。日本の昔話には年よりをいたわる、うそをつかないなどの道徳が自然に身につくものが多く、大切にして欲しい」と話す。
 
 かつて小学校には道徳の時間があり、テレビで物語を見せられた。よい役と悪い役が出てきて繰り広げられるお話。「大きくなる子」のような人形劇もあれば、人が出てくる教室が舞台のドラマもあった。何がよくて、何が悪いか分からないから、こうしたお話を見たり聞いたりする価値がある。
 
 

 「沖縄戦」の戦没者名が刻まれた沖縄県糸満市の「平和の礎(いしじ)」ができて10年。今年ようやく兄と妹の名前を刻んだ真栄城ヒデ子さん(67)の取材で、小学校の同級生、玉城トミ子さん(67)に会った。
 
 玉城さんは真栄城さんにきょうだいがいたとは知らなかった。戦後、戦災で校舎がなくなった小学校の「青空学校」で、人懐こい笑顔が魅力的だった。「当時、私は亡くなった姉の話を彼女にしたが、彼女は胸の内にしまっていたのね。つらかったでしょう」
 
 玉城さんもつらい日々を過ごした。米兵に撃たれ、左手首を吹き飛ばされた。病院で看護師が「必ず生えてくる」と慰めた言葉を信じたが、ウソだとわかり、絶望した。義手をつけ、妻を亡くした兄の子4人の母代わりとして生きた。そんな話を真栄城さんにしたことはない。
 
 最近、封じてきた過去を聞いてほしい気がして、真栄城さんに「今度の同窓会で昔話しようね」と電話した。戦後60年の沖縄、広島、長崎、そして終戦と巡り来るその日に、ようやく過去を振り返る人たちがいる。(容)
(2005年7月2日 読売新聞・大阪夕刊より)

 
 
 子供に対してする昔話は、良いことか悪いことかを考えさせるためであり、大人にとっての昔話は良いことだったか悪いことだったかを検証するためである。話し手がいるのは当然ながら聞き手がいるからである。「いる」という言葉を単に「居る」とするか、「要る」とするか。それが分かるのは、語り部が真剣に話していることを聞き手も真摯に受け取ったときである。
 
 「けりをつける」という言い方は、和歌などに出てくるの助動詞「けり」を最後につけることから、「終わらせる」「済ませる」という意味がある。沖縄・普天間基地移設問題では政府の迷走が続いており、けりをつけられそうもない。このままだと、政権与党の汚点ばかりが後世に伝えられて、”しゃんしゃん”という事態になりかねない。政党の汚点ならよいが、政治というのは、国民ひとりひとりの歴史を悲しいものにしてはならない。これだけは、けりをつけなくてはいけない問題である。
 
 
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★ 普天間の県外・国外移設求め9万人大会 知事「公約通りの解決を」(産経新聞・10/4/25)
★ 「もう限界」政府に怒りの声 沖縄県民大会(読売新聞・10/4/26)
★ 普天間問題:「なぜ基地押しつける」 会場に怒りの声次々(毎日新聞・10/4/25)
★ 「危険性除去と負担軽減を」仲井真・沖縄県知事あいさつ(朝日新聞・10/4/25)
★ 「桃太郎のお供は?」「アンパンマン!」昔話知らない子供たち(産経新聞・10/4/24)
★ まんが日本昔ばなしの人気(本ブログ・08/1/12)
 
 

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懐かしい再放送「がんばれ!ロボコン」

 小学生のころ、都内に住んでいた漫画家の石ノ森章太郎さん宅にお邪魔したことがある。グループ研究の類で、5人ほど集まって石ノ森先生にお話を聞きに行った。自宅前には等身大の仮面ライダーの模型があった。さすがに”アポなし”での取材は迷惑だったようだが、「明日ならいいよ」と応じてくださった。それにしても、どうやって住所を調べたのだろう。
 
 そんな石ノ森章太郎作品で代表的なものの1つが「がんばれ!ロボコン」である。実写の子供番組としては異例の118話まで続き、現在もその記録は破られていない。長いことビデオやDVDでの販売はなかったが、昨年からCSで再放送、同時にDVDも段階的に販売されている。
  
 「ロボコン」は東京・練馬区に東映大泉撮影所があることから、主に練馬区西部とその周辺で撮影されていた。そのため都立石神井(しゃくじい)公園も頻繁に出てくる。実際に住宅街の交差点で映った「飛び出し注意」の立て看板には、実在する「石神井警察署」と記されている。
 
 また、由利徹演じる「町田巡査」が勤務している交番を見ると「警視庁石神井警察署・高野台派出所」と、実在する町名が表示されていた。この交番は本物ではないか、そう思ったので調べてみた。現在の管轄である、光が丘警察署のホームページが少し変わっていた。交番の紹介はどの署のホームページでも確認できるが、ここだけは珍しく交番の歴史が紹介されている。奇跡的にも、昭和44年に新築されたという当時の派出所の写真が載っていた。今ではあり得ないが、これを見て”本物の交番”を撮影に使っていたことを確信した。現在は移転して、「警視庁光が丘警察署・練馬高野台駅前交番」となっている。
 
 ロボコンは「A級ロボット」を目指すために、人間社会に奉仕しようとロボット本部からやってくる。100件目の訪問先である「大山家」でようやく居候をさせてもらうことができる。ゴキブリを見るとパニックを起こして家中を破壊してしまうが、どんなことにもめげずに「ロボ根性」で困難に立ち向かう。しかしロボット学校に戻っても、ガンツ先生の採点はいつも「ロボコン0点!」である。そんなときには両手を頭で抱えて「ウララ~」と嘆くのがお決まりである。
 
 ある日、大山家の長女「みどりちゃん」(ロボコンは舌足らずなので「どりちゃん」と呼ぶ)が、「ロボットなんて大嫌い!ロボコン、近寄らないで」という。さらに「ロボコンは(鉄でできているので)冷たいでしょ。温かい血が流れていないからよ」と言う。怒ったロボコンは「確かにおいらは鉄でできているが、誰にも負けないロボ根性と熱いハートがあるのだ!」と、頭から煙を出して言う。この回では、どりちゃんに好かれるべく、「ウララ〜」と失敗しながらも、ロボコンの奮闘が見られることになる。
 
 人情味のあるロボコンはこの他にも、仲間のロボットを救うために体内の大切な部品を渡してフラフラになったり、仲間の代わりにダイナマイトで木っ端みじんになるなどさんざんな目に遭う。ロボコンは最終回を迎えるまでに、何度か100点を採ることがあるにはあるのだが・・・・。
 
 かつてソニーがAIBOを発売した際、海外では「そのロボットは何かに役立つのか」という反応があった。日本人はAIBOをペットの替わりとしていたが、ロボットに対する欧米との考え方の違いを垣間見た。最近では表情豊かな女性ロボットも出現し、また、人の介助に適したロボットも実用化に向けて開発されつつある。
 
 ロボットは確実に進化をしているが、人間は進化しているだろうか。紛争が絶えることなく、欲に群がる人間の意識は全く変わっておらずに歴史は繰り返されるだけである。正確に言うと、人間はわずかながらに進歩しているのだが、大きな進歩を完遂する前に死んでしまうのである。それを分かっている者は、命を冒涜するようなことはしないであろうし、自らを粉にして現実と闘うことだろう。
 
 時代は変わっても、時の流れは変わらない。「ロボコン」の話の最後に、子供たちが「ロボコン、おうちへ帰ろう」と、ロボコンの手を引いて帰るシーンがある。それは夕焼けのきれいな、昭和の一コマである。
 
 
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★ ロボットと人間(本ブログ・07/12/11)
★ がんばれ!!ロボコン (石森プロオフィシャルウエブサイト)
★ 警視庁光が丘警察署
★ 人間型ロボットがモデルデビュー(産経新聞・09/3/23)
 
 

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