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民間機を撃墜か マレーシア航空機がウクライナ上空で(2014.7.18)

 
 1983年9月1日、アンカレッジ発ソウル行きの大韓航空ボーイング747型機が、ソビエト連邦(現:ロシア)の戦闘機に撃墜される事件があった。同機はソ連の領空を侵犯したために撃墜されたが、民間機を撃ち落としたソ連に対して国際社会から非難の声が上がった。同機が領空侵犯をした原因は分かっていない。
  
 ウクライナ共和国で17日、マレーシア航空ボーイング777型機が、地上からの迎撃ミサイルに撃墜された。ミサイルを発射したのは親ロシア派の武装勢力と思われているが、親ロシア派はウクライナ側に原因があると主張している。
 
 墜落現場周辺には、燃え尽きた機体の残骸が散乱した状態になっている。ブラックボックスは親ロシア派勢力が保管しており、真実の追究には同派が協力的である必要がある。
 
 300人近くが亡くなった。
 
 飛行機は人が便利に移動できる手段というだけではない。国と国をつなぐ夢の発明だったはずだ。最初はいつも、新しい発明は夢を語ることができるが、その目的が変容することがあるのが寂しい。飛行機は、戦闘機となると国と国を分断する。
 
 そして今回、夢を語ることのできないミサイルという発明によって罪の無い人たちが犠牲となった。人は時に、無意識のうちに悲しみを発明してきた。この発明だけは失敗を繰り返して欲しいものである。83年の大韓航空機には当時中学生だった同級生が乗っていた。そうか、あれから31年が経過しようとしているのか。
  
 
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★ 日航機墜落ともうひとつ、(本ブログ・05/8/16)
 

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今日の短歌・19

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 父が言う
  
 お前の本当の
  
 いいところ
  
 続き聞きたく
  
 今宵も眠る
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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旅立った15歳のナナ

 
 私的日記。先日ペットショップに行ってポメラニアンの子犬を抱かせてもらった。ちっちゃいその”女の子”をだっこすると、これでもかというくらいに私の顔をなめ続けた。「おー遊びたいの?そうなの?」と他人に聞かれたら恥ずかしい声を出してその子と楽しい時間を過ごせた。
 
 そう考えると、我が家のミニチュアシュナウザーのナナ(メス)は寂しい幼少期を過ごしていたようだ。顔を近づけてもペロペロなめてくれることなく顔をそむけてしまう。普通は幼少期に、母親から顔や全身をペロペロなめてもらって愛情をたっぷり受けて育つ。ナナはその経験が無いのだ。
 
 どんな環境で育ったのか分からないのだが、ナナはいつもオドオドしており、後ろからちょっと触っただけでビクッと反応する。晩年はお漏らしをしないようにオリの中に入れていた。時々外に出しても、ふらふら倒れてしまう。たまに会いに行っても私のことはもう覚えてくれていない。もっとも、聞こえない、見えない、そんな状態になっているようだった。
  
 先月末に電話をしたときナナの様子を聞くと、「今夜が最後かもしれない」と母が言っていた。しかし、「ご飯は食べている」とのことで、もう少しがんばれるのではないかと思っていた。一般に、最期が近づくと水しか飲まなくなるが、ナナは最後までちゃんとご飯を食べていた。食べていたと言っても自分で食べることはできず、家族が口元に運んでという具合ではあった。
 
 翌3月1日午前、15年間家族であったナナが旅立った。老衰。これまでに病気を患ったこともないナナは大往生であったといえる。今ごろは、14年前に先立った雑種犬(14歳没)と久しぶりの再会を楽しんでいることだろう。ナナちゃん、もう、ビクビクしなくていいんだよ。
 
 
 
 
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あなたとは50年前につながった

  
 「LINEは50年前に生まれた」などという話題があるそうだ。勿論そんなことはあり得ないが、LINEを始めとする人をつなぐ道具というのはネット文化で栄えた。
 
 固定電話しか無かったころ、相手の家に電話するのが楽しかった。特に異性の家に電話するのには勇気がいる。家族が出ることを予想して、うまく乗り切る文言をあらかじめ用意したものだった。父親がまずい。「どこのNonoさんですか?」なんて聞いてくる。どこのNonoさんでもいいじゃないか、早く彼女に替われ、そう言いたい気持ちをぐっと堪え、下手な敬語と丁寧語を駆使して異性の友人につながるのである。
 
 ポケベルが登場したころ、電波の強かったポケベルは活躍した。数字だけのメッセージが送れなくても、電話以外の手段でつながることがとても楽しい。数字で「4649」(よろしく)とだけの簡易メッセージで相手の気持ちを汲んだ。
 
 時同じくして、ファックスでやりとりした友人がいた。メールがない時代、濃厚な内容と筆跡が家に届いているのは手紙よりも早い楽しいやりとりだった。今でも宝物。
 
 手紙も同じころやりとりした。郵便ではなく、直接手渡しする手紙の内容は恋愛の話がほとんどだった。誰某の気持ちが分からない、私も辛い、といった今考えればたわいの無い話だったが、手紙を書く時間、渡すとき、相手がそれを読む時間、それに返信する手紙、一人の相手の時間を大切に使った。
 
 人のつながりというのは、自分にとって有益なつながりであればほどくべきでは無い。損得勘定をしなければならないつながりというのは解いた方が良い。プラスマイナスを考えなくても良い人間関係が、何かの拍子にほどけてしまったら、それはこっそり結んだ方が良い。人は誰でもうっかり間違える。修復する結び目は自分で強く結ぶべきである。
 
 この先何十年後にもにつながっていられる関係はどれくらいあるだろう。つながりが過去形になってしまう人はどれくらいいるだろう。50年前に何かが生まれた。どうせ言うのであれば、たくさんの時が流れた、50年前にあなたと知り合ったね、そういうつながりを保ちたいものである。そういう過去を作るためには、つながる未来を今から結ぶことだ。
 
 
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記憶+感情=思い出

 都内で94歳の女性が初めて受け持った小学校の教え子と対面しているテレビを見た。元教員の女性は高齢にもかかわらず元気でブログも書いているという。女性のひ孫である女子大学生が奔走し、再開を実現させた。
 
 女性の勤めていた小学校で教え子と対面したが、「ちょっとまって、思い出すから。○○ちゃん!」と当ててみせた。教え子も「この年になって先生に再会できるとは思わなかった」と感激する。
 
 教え子の一人である男性は、「先生にお礼を言いたい」と切り出し、「悪いことしてなかったのに、別の先生に廊下に立たされた。その時、先生が『もういいから帰りなさい』といってくれた。ありがとうございます」とすると、女性は「ああ、そう」と返していた。
 
 男性もよく覚えているものだが、元教員の女性もよく覚えていた。おぼろげな記憶に感情が加わると、思い出という記憶として定着するようである。
 
 そういえば、つきあいの長い友人というのは、喜怒哀楽の感情がしっかりついている。ケンカもしたけれど、楽しい時間をたくさん過ごした。楽しかった思い出が多く残るのは、一緒に思い出を作ってきたからであり、それを会うたびに話すことができるからである。
 
 これから先、何十年と時が流れる。黙っていても時間は経過する。同じ時間を過ごすのであれば、この時間に乗って過ごしたい。そうすれば未来は自ら作ることになるし、今過ぎ去ってゆく一瞬が思い出になる。
 
 
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Source: ameblo.jp via Teiji on Pinterest

 

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体罰を受けて顧問と学校を提訴 元女子柔道部員 東京地裁に

 藤村女子中学校(東京・武蔵野市)に通っていた元柔道部員(16)が、体罰を加えられたなどとして、学校を運営する井之頭学園と顧問の男性教諭に計495万円の損害賠償請求を起こした。学校側は「こちらが把握している事実と違うことも含まれている」などとして、争う姿勢を明らかにした。
 
 閉ざされた空間で起きていたかもしれない体罰問題がまた浮き彫りになるのか。元女子部員は現在別の学校に通っているという。学校に対する不信感がスポーツをする楽しみを奪ってしまったとしたら残念なことだ。それに加えて、大人や学校に対する不信感を抱くと言うことは、発達途上の少女の心に傷を負わせたに違いない。
 
 早く咲いた東京のソメイヨシノ。この時期には卒業と入学が訪れる。新たな夢や希望を抱いた新入生がやってくる。若者のそうした気持ちを散らしてはならない。常に花開いた状態にして卒業させてあげなければ、学校というものの存在意義が無くなる。
 
 この学校のソメイヨシノはとても綺麗だ。綺麗な思い出が開花するように、学校側と生徒との信頼関係は常に水を与えておかなければならない。
 
  
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★ 藤村女子中学・高等学校ホームページ
★ 体罰で大けが 藤村女子中の元柔道部員提訴(日テレNEWS24・13/1/23)
★ 本ブログ内「体罰」関連エントリ
★ 住みたい街ナンバー1で起きた悲劇 絶たれた若い命 東京・吉祥寺強盗殺人事件(本ブログ・13/3/4)
 
 

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開運お守りの思い出

 
 
 以前、都内の神社に初詣に行った。年明けから数日過ぎており、人はまばらな近所の神社だ。鳥居をくぐり、参道をゆっくり歩くと賽銭箱が置かれる幣殿(へいでん)に近づいた。すると、髪の長い若い女性が手を合わせていた。終わるのを待っていたが、なかなか終わらないようなので境内を散歩した。女性が長く神様にお願いするのも訳があるのだろうか。
 
 今年は近所のお寺に初詣。新年2日目という事で多くの人出。近隣の駐車場は満車、露店が多く出店して賑わっている。賽銭箱に小銭を投げて手を合わせた。こういうところで手を合わせると、願い事をするのと同時に反省することが多い。それは困った時の神頼みなんてムシが良すぎるのではないか、という罪悪感である。
 
 普段から神仏に手を合わせ、身を捧げようとしているわけではない。単なるお祭りのごとく、一年で一度の行事に乗じているだけではないか、そんな気持ちがある。そう考えることもいやなので、お守りを購入して毎日持ち歩くことを考えた。
 
 これまでは自分の中に宗教を持ち、それを神の存在として認識していた。それでもいいのだが、その思いを形にしておきたいと考えたのがお守りであった。それは必ず、自分を裏切らずに正しくあることを毎日誓うことにある。
 
 それでも人は神仏に手を合わせる。自分では正しいはずの行いが、うまく作用しなかった時にすがりたくなる宗教心ではないだろうか。
 
 くだんの女性は、私が境内を散歩して戻ってきたのにまだ手を合わせていた。背筋を伸ばして微動だにせず手を合わせていた女性は、きっと自分で宗教を持っているのだろう。しかし自分ではどうしようもなくなることもある。誰かに願いを聞いて欲しくなったに違いない。
 
 さり気なく横から女性を見ると、頬に涙が伝っていた。自分のことなら涙は流さない。きっと、大切な誰かのために流していた涙に違いない。
 
 二十分以上も手を合わせていたのだから、あの女性に幸が訪れたことを信じたい。これはムシの良いお願いではなく、ささやかな他人に対する自分の宗教観。
 
 
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11月11日は、じいじの日

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
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