言葉のリサイクル

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自由を守るための行動

 
 人工透析患者を「殺せ」とブログで言い放った元アナウンサーが次期衆議院選挙に立候補するという。インターネットという公の場で人を「殺せ」というのにはまったく理解ができないが、こういう人が議員になろうとしていいのだろうか。
 
 最近強く感じるのは、こうした”言葉の裸の王様”が増えているということである。米国大統領氏は移民を排除する、隣国を壁で隔てるなどと発言している。また、被害者を罵り19人を死に至らしめた相模原の事件は記憶に新しい。
 言葉にも服を着せるべきである。過激な言葉を選んで大きな声を出した人が一番の世の中であるべきではない。マナーを持って言葉を運用する最低限のルールが失われつつある。声が大きくなくてもいい、言葉を発しなくても正々堂々と生きている人が評価されなくてはならない。評価されなくても、認められなくてはならない。生物が生きる権利というのはそうした基本的な考えに基づくものである。
 
 そして、愚かな行動に対して、「それは間違っている」と感じたら、「それは間違っている」と声をあげ、「正しいのはこういうことである」と行動することである。誰でも不本意な生を授かったり、事件事故に巻き込まれたりして行動不能な病床に陥ることもある。そんな立場の弱い人に対して、大義の言葉の飾り付けをして、それを当然のごとく周知していいのか。
 「殺せ」などと、自分ではなく他人の力を借りて祈念するのは誤りである。力というのは気にいらない相手を消し去ることにあるのではなく、消えそうな相手を救うことにある。最後には誰もが消える。消えるまでの自分の足跡や生き方はそれでいいのか。
 
  声を大にしていうことで既成事実化させ、さも当然のごとく振る舞う昨今の傾向はどうにかならないだろうか。声なき声を救い、横暴な無駄な声には断固NOという声をかぶせるべきである。それでどうにかするのが本来あるべき事実である。
 
 
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