言葉のリサイクル

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開運お守りの思い出

 
 
 以前、都内の神社に初詣に行った。年明けから数日過ぎており、人はまばらな近所の神社だ。鳥居をくぐり、参道をゆっくり歩くと賽銭箱が置かれる幣殿(へいでん)に近づいた。すると、髪の長い若い女性が手を合わせていた。終わるのを待っていたが、なかなか終わらないようなので境内を散歩した。女性が長く神様にお願いするのも訳があるのだろうか。
 
 今年は近所のお寺に初詣。新年2日目という事で多くの人出。近隣の駐車場は満車、露店が多く出店して賑わっている。賽銭箱に小銭を投げて手を合わせた。こういうところで手を合わせると、願い事をするのと同時に反省することが多い。それは困った時の神頼みなんてムシが良すぎるのではないか、という罪悪感である。
 
 普段から神仏に手を合わせ、身を捧げようとしているわけではない。単なるお祭りのごとく、一年で一度の行事に乗じているだけではないか、そんな気持ちがある。そう考えることもいやなので、お守りを購入して毎日持ち歩くことを考えた。
 
 これまでは自分の中に宗教を持ち、それを神の存在として認識していた。それでもいいのだが、その思いを形にしておきたいと考えたのがお守りであった。それは必ず、自分を裏切らずに正しくあることを毎日誓うことにある。
 
 それでも人は神仏に手を合わせる。自分では正しいはずの行いが、うまく作用しなかった時にすがりたくなる宗教心ではないだろうか。
 
 くだんの女性は、私が境内を散歩して戻ってきたのにまだ手を合わせていた。背筋を伸ばして微動だにせず手を合わせていた女性は、きっと自分で宗教を持っているのだろう。しかし自分ではどうしようもなくなることもある。誰かに願いを聞いて欲しくなったに違いない。
 
 さり気なく横から女性を見ると、頬に涙が伝っていた。自分のことなら涙は流さない。きっと、大切な誰かのために流していた涙に違いない。
 
 二十分以上も手を合わせていたのだから、あの女性に幸が訪れたことを信じたい。これはムシの良いお願いではなく、ささやかな他人に対する自分の宗教観。
 
 
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