川崎市多摩区で発生した連続殺傷事件は地域住民に暗い影を落とした。普段と変わらない日常生活が突然切り裂かれてしまった。当然ながら被害者には何の落ち度もなく、亡くなった方には安らぎが訪れることを祈りたい。負傷された方に対してはお見舞いを申し上げたい。
川崎市内に住む容疑者の男は、電車に乗って犯行現場まで来た。その途中で犯意がひるむことがなく、手袋をはめて包丁を4本所持していたというから計画的な犯行である。そして凶行に及んでいたときにバスの運転手から「何をしている」と言われると刃物を自分の首に刺して自死した。多数の被害者を出してから自分の人生を終わらせるまで30秒もかかっていないということであり、自死する前提での凶行だと推測できる。
負傷者が受けた恐怖というのは計り知れないものであって、今後は心のケアで心身ともに回復していただきたい。集団登校の列に車が突っ込む、そんな事故が過去にはたくさんある。そんな事故から子どもたちを守るためのスクールバス停留所で事件は起きた。どうしたら子供たちを守れるのだろうか。
驚いたのはテレビの司会者やコメンテーターの一部で、幼い子供を傷つけるくらいなら一人で死ねという考えが醸成されていることである。被害者の発言であれば当然のことであるが、番組出演者が免許を受けた放送局の電波を使って「死ね」という発言をするのはどいういう思考なのか理解ができない。
女性キャスターは「自分一人で自分の命を絶てば済むことじゃないですか」といい、別の男性弁護士は「言ってはいけないことかもしれないけど、死にたいなら一人で死ねよといいたくなりますよね」と発言。さらに男性落語家は「一人頭のおかしい人が出てきて、死にたいなら一人で死んでくれって、そういう人はなんで弱い子供のところに飛び込んでんだって」などと発言した。
死ぬというのは手段や目的ではなく、生物であれば誰もが受け止める宿命である。「死ね」という言葉は死を手段にする。「一人で死ね」という言葉はあまりにも冷たい。心がない。言葉を飾る体裁すらない乱暴な考え方だ。日常生活において死を手段に選べなどということがあっていいはずがない。
容疑者の男が長年に渡って引きこもっていたことから、ひきこもりの人たちがあたかも犯罪を犯す予備軍的な集団と烙印が押されることが懸念されている。一度社会から脱線してしまうと社会復帰が難しくなるのが日本社会。国が行ってきた引きこもりの調査も15歳から39歳までであった。なぜ40歳以上を対象から外したのか分からない。もう打つ手はないとして見放したか。
川崎の事件では過去の通り魔事件なども踏まえた上で、どうしたら子供を守れるだろうかということと同時に、どうしたら通り魔を起こすような人を作らないかに焦点が当てられた。これは報道される上で一つの前進である。犯罪者なんて普通の人とは住む世界が違うから私には関係ない、警察が捕まえてくれればそれで終わり、そんな社会の流れがかわりつつある。
令和に入ってからインターネット上ではいくつかの事件の映像が流れた。その中で印象的だったのは、駅ビルから身を投げてしまった若い女性の映像だ。
女性の行動を止めようと警察官が説得を試みていた。女性の方に向かって男性警察官が片手を伸ばしていた。女性の体と警察官の手の距離は1メートルもなかった。数十センチだった。わずか数十センチまで警察官は近づくことに成功していたのだった。時間をかけて、細く、消えそうになっていた命の灯に向かって、大事に、静かに近づいていたのだった。
タグ: 学校
東京・中野区の中学出身なので非常に興味深い。中野区は区立中学校の女子の制服について、スカートだけでなくスラックスも選べるように2019年度から見直すと決めた。「スカートではなくスラックスをはきたい」という小学生の女児からの訴えだったといい、今後、男子生徒も制服を選べるようにすることも検討しているという。
こうしたニュースで思い出すのが「3年B組金八先生 第6シリーズ」である。転校生である鶴本直(上戸彩)は女子生徒でありながら男子生徒と取っ組み合いの大喧嘩するなどの言動があった。その後に自分が男であることを教室で告白する。しかし鶴本の外見は女性であることから教室中が騒然とする。そのあとで鶴本直は性同一性障害であることが周知されることになる。
金八は養護の本田先生(高畑淳子)の協力を得て教室で性に対する授業を行う。授業の最後には金八が鶴本直に対して、「直が成人になるころには、戸籍の性別変更ができる優しい優しい社会になっているでしょう」という。
そして現在、戸籍の性別変更は一定の条件のもと、家庭裁判所の判断を経て変更が可能になっている。近年ではLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)という言葉も耳にすることが多くなった。自治体によっては同性婚を「パートナーシップ証明書」として認めている。
人のさまざまな生き方というものをもう一度考えたい。人間は生まれながらに他人とは違い平等ではない。変えることのできない環境を背負っている人を指を指してはいけないということだ。
生まれながらに背負った障碍や病気もある。その本人と同居する家族がいる。その人と同じ教室で勉強をしている人がいる。その人と同じ地域に住む人達がいる。その人たちが取り巻く社会がある。その社会を構成する国や地域がある。誰かを侮辱することが、見知らぬ人や人たちや地域や社会や国や地域を突き落とすことになり傷つけることになるのではないだろうか。
前に「ジュラシックパークⅢ」のセリフを引用した。「世の中には二通りの男の子がいる。ひとつは、天文学者になりたい者。もうひとつは、宇宙飛行士が好きな者だ」。これからはそれに少し加えたい。占星術を学ぶ者、星の絵を描きたい者、誰もが憧れるスターになる者。そしてそうした夢や希望というのは、国籍や肌の色や老若男女を選ぶことを絶対にしない。
★ 中学校の制服、女子もズボン選択OKに 東京・中野区(@niftyニュース・2019/2/1)
昔の話。かつて住んでいた街で幼なじみの戸越さんという女の子がいた。顔も覚えているが、私が転居したこともあり、彼女がいまどこで何をしているのか分からない。もう一度会いたいと思った。
当時彼女が住んでいた家に行ってみた。しかし家はあるものの表札が戸越ではない。そこで、当時通っていた南小学校に行って彼女の転居先を聞いた。
「戸越さんなら第一中学校に行っているのでそちらで聞いてみるといいですね」
と言われ、学区内であれば通うであろう第一中学校に行った。するとそこでは、
「戸越さんなら途中で武蔵野市立緑中学に転校しています」
と教えてもらった。
そこから車で1時間ほどの緑中学に行って確認した。
「戸越さんなら、○丁目に住んでいるよ」
と教えてもらった。
地図を確認し、10分ほど車を走らせたところにその家はあった。表札を確認すると間違いない「戸越さん」である。
ところで、1つの小学校と2つの中学で何と言って女性の住所を聞いたかというと、単純に「昔の幼なじみの女性を捜しています。どうしても会いたいので、今どちらにいるか教えていただけないでしょうか」という質問であった。
最初に訪問した南小学校では女性の先生が対応。「はいそうですか、と教えるわけにもいかないので」と言われた後、私の在籍当時の担任の名前、現住所と連絡先を聞かれた。次の第一中学では女性の先生が対応し、現住所と連絡先を聞かれた。
最終訪問地の緑中学では、男性の先生が対応。
「わざわざそんなことのために来たの?戸越さんね。確かにうちに在籍していたよ。Nono君は世田谷区立北中学校出身なのか。北中学の前に■■という飲食店あるよね。あそこ、旨いよな」
「はい、美味しいですね!」
思わず微笑んだ。
「うちの息子、Nono君と同じ北中学に通っているんだよ」
「え、そうなんですか!」
という会話があったあと、現住所と連絡先を聞かれ、戸越さんの住所を教えてくれて「行ってみてごらん」となった。
当時は私も若く、純粋に人に会いたかったという”熱意”が伝わったものと思うが、当然ながら今の時代に”会いたい”という理由だけで転校先や住所などの個人情報を教えてもらうのは不可能である。今なら学校に入ってその旨伝えたところで門前払いとなるだろう。
昭和の時代の話であり、個人情報に関する扱いもゆるかったに違いない。先生方は在籍時の担任の名前を確認したり、中学の前の飲食店の話をすることで、私の話の整合性を判断したのであろう。
そんなわけ戸越さんの家に行き、ドキドキしながらインターホンを押した。出てきたのは祖母と思われる声。口の悪かった戸越さんが言っていた「クソババア」である。私は戸越さんと同じ幼稚園、小学校出身であることを力説したが、「申し訳ないのですが、昔の話ですし、覚えておりませんのでお引き取りください」と言われてしまった。
そこを後にしたのは夕方。秋の夕焼けがむなしくオレンジ色の光を投げかけてきた。個人情報のガードが堅かったのは、戸越さんの家であった。
でも、会えなくてよかった。少しばかり遊んだことなんて戸越さんは覚えていないだろう。こうして些細な過去を引きずるのは男のほうなんだろうな、と。
女の子が覚えている異性というのはきっと、一緒に遊んだこともなく、声をかけることもできなかった、そんな切ない異性のことだ。伝えることもできず、純粋すぎて臆病な気持ちであったに違いない。
(文中の登場人物、学校名は全て仮名)
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沖縄県内の公立小学校に勤務する40代男性教諭が、児童の顔に落書きをするなどのいじめをしていたことが発覚した。児童は嫌がっているにもかかわらず、「宇宙人」というあだ名で呼ぶなどされていた。
児童はストレスが原因で情緒不安定になっていると診断され、自傷行為や嘔吐などの症状が出ているという。男性教諭もこの問題の発覚後に体調を崩して休職しているとのことだ。
いじめの問題は昔からあるのだが、この男性教諭はいじめ問題に対する意識はなかったのだろうか。セクハラ、パワハラ、モラハラなどの嫌がらせもそうであるが、常に当事者意識を持っていればこういう問題は起こりえない。なぜ自分が加害側になるかもしれないという意識を持って人に接しないのか。
ささいな一言が人を傷つけることがある。言葉というものが相手の心を傷つけ、それに気がつかない加害者は有形力の行使によってさらに人を傷つけるのである。
冒頭の問題はそうしたことを教えるべき場所である学校で起きている。全国でたびたび露呈するいじめの問題の根本解決は、他人を尊重することから始まる。しかし権利意識の高まりで、自分を尊重することを優先する者があまりに多い。
こうした記事を読んで「対岸の火事」だと思っていたら危険である。対岸の手前に流れているはずの川は常にきれいとも限らず、それどころかきれいでない世の中では川すら流れていないことの方が多いからだ。つまり、飛び火は簡単に起こるということである。
★ うるま市の小学校教師が児童の顔に落書きや宇宙人とあだ名呼ぶ(ニュース速報Japan・15/1/22)
いじめに侮辱罪適用 兵庫・川西
昨年9月、兵庫県川西市内で自殺した高校2年生の男子生徒(17)がいじめを受けていた事件で、兵庫県警は同級生3人を侮辱容疑で書類送検した。侮辱容疑自体が珍しいが、いじめで同容疑が適用されるのは珍しい。
送検容疑は、昨年5〜6月、男子生徒のことを「菌」とよび、生徒の椅子に死んだ虫などを置くなどして侮辱した疑い。
公然と侮辱することで成立する本罪は、名誉毀損罪と異なる。
名誉毀損は社会的地位を公然と失墜させる事実を指摘すること。侮辱罪は事実を指摘せずに公然と人を侮辱することで成立する。罰則としては拘留、または科料であり、比較的軽微な犯罪である。なお、名誉毀損罪は3年以上の懲役、または禁固、または50万円以下の罰金だ。
こう考えると、人に対して侮辱的な言動というのは日常的に氾濫している気がする。それを実際に法運用がなされるものでもない。侮辱罪というような親告罪は、第三者が犯罪を認知して自動的に法廷で裁かれるわけではない。被害者側のささやかな見逃しで、罪にならずに済んでいる人がたくさんいるのではなかろうか。
言い換えれば、婦女暴行罪などの親告罪は、被害者が加害者を訴え出るために勇気を振り絞る必要のある罪である。訴えられた側は、その勇気に耐えなくてはならない。公の場に晒されることに耐えなくてはならない。被害を受けた側の反撃が始まる。
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★ いじめ自殺で同級生3人書類送検 兵庫、侮辱容疑(共同通信・13/5/1)
自転車サドルに啓発アート 花が咲いたら
横浜というのは坂の多い町である。行政区18区のどこを見ても坂が多く、住人の方は車や自転車が日常生活に欠かせないはずだ。横浜国立大学のある保土ヶ谷区も例外ではない。
同大では学内に放置された自転車対策として、サドル部分に花を取り付けた。花が咲けば放置期間が長いという証拠になる。さらに自転車の共同利用(シェアリング)システムである「COGOO(コグー)」を試験的に実施して学生に利用を呼びかけている。
近年、移動手段として自転車が注目を浴びる。健康のため、そして震災発生時の移動手段として手軽である。しかし駐輪場数が需要に追いつかず、多くの自治体で新たな駐輪場整備対策が行われている。
加えて、民間にも駐輪場対策を促したい。新たに作られる店舗やビルなどは自転車を置くスペースを確保した方がよい。わずかなスペースの確保で歩道上の自転車が消えれば歩行者や車いすのかたが安全に移動できるようになるだろう。
横浜国立大の話は一大学の小さな話である。それでも、同大生が花を見て自転車のことを思い出すことで放置自転車対策が進めばよい。何しろ、放置自転車に張られる警告表示よりもシンプルである。それに枯らすわけにはいかなそうである。
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★ 花が咲くまで放置された自転車?(時事通信・13/5/7)
★ 道路の不正使用 見えない障害物
★ 花を育てて防犯効果
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藤村女子中学校(東京・武蔵野市)に通っていた元柔道部員(16)が、体罰を加えられたなどとして、学校を運営する井之頭学園と顧問の男性教諭に計495万円の損害賠償請求を起こした。学校側は「こちらが把握している事実と違うことも含まれている」などとして、争う姿勢を明らかにした。
閉ざされた空間で起きていたかもしれない体罰問題がまた浮き彫りになるのか。元女子部員は現在別の学校に通っているという。学校に対する不信感がスポーツをする楽しみを奪ってしまったとしたら残念なことだ。それに加えて、大人や学校に対する不信感を抱くと言うことは、発達途上の少女の心に傷を負わせたに違いない。
早く咲いた東京のソメイヨシノ。この時期には卒業と入学が訪れる。新たな夢や希望を抱いた新入生がやってくる。若者のそうした気持ちを散らしてはならない。常に花開いた状態にして卒業させてあげなければ、学校というものの存在意義が無くなる。
この学校のソメイヨシノはとても綺麗だ。綺麗な思い出が開花するように、学校側と生徒との信頼関係は常に水を与えておかなければならない。
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★ 藤村女子中学・高等学校ホームページ
★ 体罰で大けが 藤村女子中の元柔道部員提訴(日テレNEWS24・13/1/23)
★ 本ブログ内「体罰」関連エントリ
★ 住みたい街ナンバー1で起きた悲劇 絶たれた若い命 東京・吉祥寺強盗殺人事件(本ブログ・13/3/4)
「体罰に線引き必要」ボーダーラインの可否
大阪市立桜宮高校で男子生徒が体罰を苦に自殺した問題で、文部科学省の義家弘介政務官が大阪市役所を訪れて永井哲郎教育長らと今後の対応を協議した。この中で義家政務官は、「気合いを入れるための平手打ちは前時代的だ」と否定しながらも、「強くなるために(体罰は)一定ある。目的は何なのかだ」、「あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」などと述べた。
学校基本法は体罰を禁止している。平手打ちのようなものではなくても、バケツを持って廊下に立たせる行為も体罰と推認される。しかし義務教育中の児童や生徒を教室外に出すことは禁止されている。
スポーツの世界で気合いを入れるためと称し、平手打ちをするなどの行為がある程度許容されている特殊な世界である。しかし、政務官が言うような「線引き」とは少々違和感がある。
やってもいい体罰や悪い体罰など存在しない。体罰は体罰であり、暴力以外の何物でもない。線引きをするとして、それをいったい誰がするのか。何を根拠に有形の暴力を容認するのか。
昨今では家庭内でのしつけと称した虐待も刑事責任を問われる。校内でのいじめも積極的に立件される。これは世論が閉鎖的な場所での暴力を許さない風潮ができているからである。その校内で、先生が児童・生徒に暴力をふるっていいわけがない。言葉という無形の暴力も同様である。もっとも、人に対して力をふるったり罵声を浴びせるような指導しかできないのは、その指導者が無能であるからだ。
人に教えるということは、拳を振り上げて強く主張する方法もあるが、さりげなくほのめかすという方法もある。子供というのは十人十色である。枠にはまった考え方で接してそれでいいのか。
教育基本法の第一章第一条には、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた心身共に健康な国民の育成を期して行われなければならない」とある。暴力を一部でも肯定すれば、この第一条を守ることなど永遠にできない。
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★ 教育基本法について:文部科学省)