こんなことまで報道する必要が? 先生の”不祥事”

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 先日書いたエントリ「不適切な問題作成の先生相次ぐ 良い出題と悪い出題」。そして今度は「セクハラサイコロ」なるものを作った先生がニュースになっていた。個人名こそ伏せされていたがTVでもネットでも報道された。学校名と年齢が記されていれば個人も特定されてしまう。
 
 果たしてわざわざ報道する価値があるのだろうか。 
 
 良いか悪いかと聞かれれば悪いことかもしれないが、サイコロ先生も変なクイズを出した先生も悪意があってしたことではない。こんなことまでいちいち報道されたら、日常的な些細なことですらニュースになりかねない。恐ろしい。鬼の首を取ったかのように報道すべきことではない。
 
 これらのことは学校や保護者の間で解決すればよい話で全国に流されるべき話ではない。犯罪でもないこんな些細な話に”知る権利”を行使するつもりは毛頭無い。
 
 マスコミは3DテレビやiPadをやたら宣伝する。テレビは番組を見てもらうため、iPadはサイトにアクセスしてもらうため、そんなところかもしれない。しかし、こんな重箱の隅を突くようなニュースは要らない。日常生活が息苦しくなるような激しい嫌悪感を抱くような報道は要らない。こんなヒステリックなニュースは要らない。報道の”自由”が単なる報道の”勝手・きまま”であるならば、自らを由々しくしているだけの愚の骨頂だ。
 
 以前、あるテレビクルーの車が違法駐車しており、警察官が運転手に注意している光景に出くわした。運転手は「こっちは取材で来ている」と警察官にくってかかっていた。一体誰のための取材活動なのだろう。こんなことなら報道には何の正義もない。
 
 では正義とはどこにあるのだろう。マスコミが持っているのか、警察が持っているのか。それは我々ひとりひとりが考え、手中に握りしめ、そして行動を後押しする原動力として常に持っていなければならないものである。
 
 握りしめたこぶしを人に向けるものでもなければ、空へ上げてシュプレヒコールをあげるのでもない。そのこぶしを自分の胸に当てることにあるのだ。
 
 
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★ 仰天!小学校「セクハラサイコロ」事件の真相 作成、行使の教諭「金八以上」と児童・保護者・卒業生が擁護 (産経新聞・10/11/6)
 
 

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