2009年のニュースを振り返る・3【裁判員裁判制度】

 「ああ、何かニュースでやっていたな」「ひどいことする犯人だねえ」と、他人事のようにつぶやいていた裁判に、一般市民が参加する裁判員制度裁判が5月から始まった。正当な理由もなく辞退はできない。守秘義務も課せられる。法律の素人が人を裁けるのか、素人が裁いていいのか、そんな意見もあるが、全国で次々と対象となる事件が裁判員らに裁かれていった。
 
 裁判員裁判2例目となった、さいたま地裁で現住建造物等放火罪に問われた男性被告人(53)は、「素人の裁判員に判断できるわけがない」「公判で嘘は言っていないのに、主張が全く受け入れられなかった。自分が悪いことをしたのは承知しているが、厳しい」と判決を不服として控訴した。控訴審ではプロの裁判官のみで行われる。
 
 この公判廷の裁判員を務めた男性(29)は、「確かに素人で法律は分からないが、みんな真剣に議論し、裁判官も含めて全員で判断した結果。いいかげんな判決ではない。裁判員のせいにするのは納得できない」と話した。この裁判では検察側が懲役10年を求刑したのに対して、判決は懲役9年の実刑判決だった。(読売新聞・09/10/17)
 
 裁判員裁判が意義深いのは、一般市民が敷居の高かった裁判所で発言、質問することで、これまで他人任せだった社会の一部に参加できるという点である。職業裁判官にはなかった視点での裁判員による質問も、市民感覚を量刑に反映させることができる。
 
 一方で、今後はプロの法曹家でも判断に迷うような複雑な裁判を受け持つ可能性も大いにある。被告人が怒鳴ったりして裁判員が萎縮するような例も出てくるかもしれない。そんなときでも裁判員は「その他大勢」として遠巻きに裁判を見つめるのではなく、被告人と対峙する冷静な姿勢が求められる。
 
 大切なのは量刑判断だけではない。今年の法曹界では「足利事件」で管家利和さんの冤罪が大きな出来事だった。謝って済むなら警察も検察も裁判所も要らないが、17年ものあいだ収監されていた管家さんの心境は想像するに余りある。こうした冤罪を作らないためにも、裁判員は検察が提出する証拠や証人の証言などを精査しなければいけない。公判廷の基本である「疑わしきは罰せず」という推定無罪の原則を忘れてはならない。
 
 冤罪は取り返しのつかない出来事ではなく、新たな「事件」を生み出すようなものである。冤罪被害者には国側から補償が成されることであろうが、人の人生というのは物ではない。償っても償いきれないような冤罪はあってはならない。
 
 被告人と向き合い、被害者の声も忠実に拾っていく責任は決して軽くない。「複雑な事件を短期間で審理できるのか」といった声が裁判員からあった。裁判員制度は今後検証すべき課題も出てくるであろう。被告人と被害者の人生がかかった真剣な審理が求められる。
 
 冒頭のさいたま地裁での被告人は「素人裁き」に納得がいかなかったようであるが、正直に話せば刑が軽くなるという前提で裁判は進むものではない。単に、懲役9年という判断されるような悪いことをしただけ、そういう判断が下されただけである。
 
 
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